【社会】「量産型」について考えてみる

こんにちは。

SHISHAMOのこの歌はもう古くなってしまったんでしょうか?

今回は、人が周りに合わせると言うことが一般的に起こることで同じような趣向の人が量産されてしまう「量産型」と言うひと昔前の流行り言葉について、考察してみようとおもいます。

どうして量産型が生まれるのか

まず、原因について考えてみると量産型であることが愚かであるとは言い難いことがわかります。もちろん、誰もが基本的に自分と他人の違いを認識することが、アイデンティティの確立にとって大事な要素であるはずです。

それではどうして同じような服を着たり、物を買ったり、場所に行ったりするのでしょうか。僕は、以下のような記事を見つけました。

人はみんなと同じ格好をして安心したいものなのだなあと思います

出典:「量産型」は悪なのか

この記事で触れられているように、他と違って変な目で見られるということは自然と避けたいと思うものです。だからこそ個性を際立たせるよりも、他の人と似たようなことをすることによってそのリスクを回避することを優先するというのはよく分かります。実際に、音楽や服装などにおいて自分もそういう傾向があるように思います。

個性は先天性でもあり後天性でもある

個性は客観的に見ると、確かに存在するものだと思います。

例えば夏のファッションでいうと、Tシャツが好きな人もいれば、おしゃれをして半袖スウェットシャツやカーディガンを羽織ってみたりする人もいます。ファッションは「人による」という意味で、「個性がある」という見方もできるのではないでしょうか。

また、人間には個体差があって各形質はそれぞれ異なることから、それを「個性」と言うこともできると思います。(生物学と言うか遺伝子学のことはあまり知識がないので、全く同じ遺伝子の人間が世界に存在しうるのかという問題に対する答えはあまり良くわかりません。)

しかし、たとえ遺伝子が同じであったとしても人それぞれ経験は異なるため、少なくとも全く同じ人というのは存在し得ないと言えるのではないでしょうか。

他人とは違う自分らしさって意外と見つからなくないですか?

「人間は社会を作って生きていく動物」だということを考えると、例えば個人は同じ社会の中にいる人の価値観や倫理観を尊重する必要が出てきます。つまり、個人は周囲とより同質であるほうが受け入れられやすいし、自分としても過ごしやすいと言えます。

それなのに自分らしさというか、他人と自分を分け隔てる何かを探してしまうということです。人間って本当にめんどくさいものだと思ってしまいます。

社会は量産型の塊じゃない?

そんな矛盾を孕んだ人間が集まった社会は、ある意味「量産型の塊」といえなくもないと自分は感じます。だからこの言葉を使っている人は、おそらくそのことを理解した上で程度の甚だしさによって使い分けているのではないでしょうか。

まとめ

まだ文章を書き始めて少ししか経っていませんが、頭の中で考えたことを文章としてまとめてみると意外と書くことが少ない事に気づきます。

人間ってつくづくめんどくさい生き物だなと気付かされます。「量産型」は超一般的な性質であって、それ自体が問題であると言い切ることは難しいと言うのが自分の結論です。